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zoom RSS 国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄/学生との対話』 (その5)

<<   作成日時 : 2016/08/11 17:50   >>

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■心に留まった言葉
5.講義「文学の雑感」後の学生との対話
●無私
◆君は客観的にはなれるが、無私にはなかなかなれない。
しかし、書いている時に、「私」を何も加えないで「私」が出てくる、
そういうことがあるんだ。
君は、自分を表そうと思っても、表れはしないよ。
自分を表そうと思って表しているやつは気違いです。
自分で自分を表そうとしているから、気が違ってくるんです。
よく観察してごらんなさい。
自己を主張しようとしている人間は、みんな狂的ですよ。
そういう人は、自己の主張するものがどこか傷つけられると、
人を傷つけます。

◆人が君を本当にわかってくれるのは、君が無私になる時です。
君が無私になったら、人は君の言うことを聞いてくれます。
その時に、君は現れるのです。
君のことを人に聞かせようと思っても、君が現れるものではない。
あるいは僕が君の言うことを聞きたいと言った時、
つまり僕が無私になる時、僕はきっと現れるのです。

(感想)
普段、自分と認識しているものは、よく考えれば単なる我利・我欲。
そして、そんな自分を冷ややかに見ているもう一人の自分がいる。
疑う余地なく、確かにいる。
それが本当の自分であろうか。仏性であろうか。
本当の自分が生み出すものは、
個性的でありながら美しく、愛おしい。
否、個性豊かであるが故に、美しく、愛おしいのである。
仏様はやはり、いっぱいおられるのだな。

●科学と認識
◆物を本当に知るのは科学ではない、物の法則を知るのが科学です。
いいですか、そこはよく考えてもらわないといけない。
つまり、科学というものは、法則を目がけているだけなのです。
科学は、僕らの本当の生きる経験などは要らないのだ。
生きている意味合いなど、科学は認めないのですよ。
(中略)そういう意味で、科学は認識ではありません。

◆科学はそういうものだと、その性質を知って科学をやりなさいということです。
今は、科学をしなければ、誰も生きていられません。
物の法則を知ることだって、人間には大切なことです。
だから、科学を捨てろというのではないんです。
ただ、僕らは科学に負けてはいけない。
科学は、本当に物を知る道ではなく、
いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、
そういう便利な法則を見出す学問なのです。
それもたいへん必要なことだけれども、
見誤ると、科学さえやっていれば僕らは物を知ることができると思ってしまう。

◆人生というのは、大きな芝居みたいなところがありますが、
さまざまな俳優がいろいろ面白いことをしているのを
客席から見ているだけではいられなくなる。
僕らはその芝居の中へ入って、自分も俳優になろうとします。
それが人生だよ。そして、そこで働くものが認識なのです。
それが<もののあはれ>を知ることなのです。
そこで働く知恵こそが、具体的な知恵なのです。
科学はその手助けをするだけですよ。
僕らはその手助けを大いに利用すればいい。

(感想)
科学の目に対する過大評価は、
数量化された世界観では捉えられないものの存在を見失わせ、
心の貧しい社会を作ります。
今こそ、科学とは如何なる学問なのかを考えさせ、
メタ視点を育てる科学教育が急務です。

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